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心の泉《宮司のコラム》

身体と心

本日は、病気平癒のご祈願が数件ございました。

もちろん本日だけではなく、常々、ご病気のお方とお話ししておりますと、ものすごく人に気をお使いになる、とても繊細なお方が多いように感じます。

いつも自分のせいにしてしまっていたり、自分を責める癖がついていたり、思い当たられることはございませんか^^?

 

実は、自分を責める行為も、他人を責める行為も、「気」は同じなのです。

普段、人を許しておられるように、ご自身を広い心で認め、豊かな愛情で包んで許してあげてください。

また、普段他の人を責めてしまいがちなお方は、他の人に対してそうしてあげてください。

難しければ、「まあ、いいか。」そんな風に、楽観的になられるのも良いでしょう。

 

心から発せられる気は、身体に影響します。

心が健康でのびのびしていれば、身体も元気になります。

 

そして、「いつもありがとう。」

生まれてから死ぬまで、休み無く働く身体に感謝し、労ってあげてくださいね^^

 

皆、命の重さは同じです。

どうか、ご自身を大切に。

 

八幡宮

 

 

 

 


平和とは何でしょうか?

連日、メディアを騒がせている国家安全保障関連法案(以下、安保関連法案と記述します)の採決。

賛成されるお方と反対されるお方と、両者の言い分があって然りではございますが・・・。

 

私が問題だと思うのは、やはり報道の在り方だと思うのです。

国会議員は、選挙という国民の意思によって選ばれています。

公約に掲げていた内の1つである安保関連法案の件に関しても、

当然ながら今更どうこういう問題ではございません。

野党の一部では、「戦争」法案だと乱暴にそこへ結びつけるような名前で呼んでいますが、

あくまで自民党は、戦争にならないための「抑止力」としての法案であると説明しています。

しかし、事実を伝えることが本分であろう報道が、事実を隠しねじ曲げて視聴者の思考を反対へ誘導するように捏造しているのです。

 

きっと、多くの人々が、出来うる限り戦争などしたくありません。

私もそうです。

日本は、平和を願う国同士では、良い国であるでしょう。

しかし、守る術のない私達は、一部の国にとっては恰好の獲物である事実を忘れてはなりません。

私たちがいくら一方的に「戦争をしません」と言ったところで、戦争は無くなりません。

そればかりか、抵抗もせず殺されたり、虐げられたり、あらゆるものを奪われるということなのです。

 

是非、想像してみてください。

最愛の人が、恩人が、守るべき弱い存在が、目の前で殺され、陵辱される姿を。

大切なものが無惨に壊され奪われていく姿を。

それは、本当に「平和」ですか?

そうだとしたら、「平和」とは何でしょうか?

 

貴方は、黙って見ていられますか?守ろうとはしませんか?守るために戦おうとしませんか?

それは愚かなことなのでしょうか。

 

 

その脅威がすぐそばに迫っている今、何もせずに待つと言うことは、戦争を誘発することと同じだと申しても過言ではありません。

現に、法案が可決されたことで、「危険」と見做した国がありました。

その反応は、「敵である」という意識があり、更には「攻める気である」ということの証明なのです。

 

例えば、私たちが近頃物騒になってきたからと、自宅の警備を強化したとします。

当然の対策です。簡単に侵入出来ないことがわかれば、犯罪の抑止力にもなりますね。

もし侵入されても、未然に防ぐことができ、大切な人やものを守れる確率もうんと高くなるでしょう。

そこで「それは危険な思想だ!野蛮だ!」と言うのは、強盗や空き巣など、犯罪を犯そうとしている者だけです。その思考こそ、危険の現れであるのです。

私たちが置かれている状況は、これに似ているのです。

もちろんこれほど単純で小規模ではありませんが、人間の心理というものはさほど変わりません。

 

報道の「戦争」という言葉で思考停止にせずに、冷静に見てみてください。

誰も戦争など望んでいないことがわかると思います。何とか私たちを守ろうとしているということが理解できると思います。

反対派の有名人が、「賛成した人が真っ先に戦争へ行け」とおっしゃいました。

こうして、「正義」と称して、意にそぐわない人を簡単に危険に曝そうとする精神こそが「戦争の正体の一部」であることを知って欲しいのです。

そして、戦争へ「行く」という観点での「集団的自衛権」への反対意見であると思いますが、日本が戦場となる可能性が高いからこそ必要な処置であり、

皆で力を合わせて、武力で意のままに外交を進めようとしている国から守り合いましょうという、戦争にさせないための法案なのです。

 

 

この時代には、まだ平和は来ません。

もっと理解が進まないと、与え合うより取り合います。

善悪を作ることは、敵味方を作ることです。

その意識では、まだまだ戦う必要に駆られるからです。

自分が持っている一つのパンを、少しづつ皆に分けられること。

自分と違うことを尊重できること。

それを皆が出来るようになって、初めて平和が存在します。

一人でも独り占めする人がいれば、多くの人が死んでしまいます。

意見や価値観を押し付ければ、歪みや反発が生じます。

平和とは、本当に難しいことです。

戦争しないと表明することと平和とが結びつくわけでは決してないことを理解する必要もあると思います。

 

そして、何より忘れてならないことは、この地球は私たち人類のものではないということです。

人類が多く死ぬことは私たちにとっては大きな哀しみですが、地球や他の生物のことを考えると自然の法であるとも言えます。

戦争がなくなれば自然災害や事故などでバランスが取られることを、お気づきになっているお方も少なくないと思います。

それに、自分や大切な人やものを守るための戦いを、神々はお咎めになるでしょうか?

野党の中には、「殺すくらいなら、殺されよう」というビラをばらまいている政党がありました。

親は、いざという時に、子供を守ることすら蔑まれるべきでしょうか?

私はそうではないと思います。

 

国を守ることは、国民を守ることです。

力で解決することしか出来ずに戦争を仕掛けるのは、本当に愚かなことだと思います。

日本は決してそちらへ向いているのではありません。

その愚かさから守ろうとしているだけなのです。

戦争で解決する精神にはなるべきでありません。しかし、戦争自体を悪とも言い切れません。

それも含めて、必要な一歩であったと思います。

 

今の報道の在り方には大きな問題があります。

しかし、視聴者が賢くなれば、必要な情報を選べるようになります。

大切なのは、いつも「脳の習慣のようになった昨日までの思い込み」を捨て、自分で考えること。

批評ではなく、未来を見据えて優先順位を決め、建設的に創造することです。

 

常に、私たちは通過点です。

よりよい未来を次世代へ手渡せるように、しっかりと歩んでまいりましょう。

 

八幡宮

 

 


『信仰』とは「宗教」の外にあるもの(1)

八幡宮

私は、宗教と信仰とは別次元にあると解釈しております。

信仰心とは、感謝の心であると思うのです。
よく、「私は何も信仰していません」とおっしゃるお方に出会いますが、私の観念では「私は何の宗教組織にも属していません」が正確な表現ではないかと思っております。

親を敬ったり、子を愛したり、健康がありがたかったり、困っている人を助けたり、人や物を大切にすることの根底にある感謝の心それこそが、私は信仰心であると思います。

どんなに熱心にお参りしても、自分に不都合なことが起きた時に誰かや何かを責めては、何の意味もありません。
そんな時に自分を省みたり、御蔭様でこれだけで済んだと感謝したり、
同じことが起こっても、それをどう感じ取るのか。信仰の価値はそこにあると思うのです。

神道は、本来は宗教ではなく、自然発生した信仰や社会の在り方が形になったものです。
ですから、お祭りも土地によって様々ですし、教義や教典などもございません。
神社は、神様がお鎮まりになって、皆様のそれぞれの信仰を受け止めるところなのです。

私は、たくさんの宗教の方々にもお参りに来ていただきたいと願っております。

宗教の垣根を越えて、それぞれの宗教の良いところや知恵が、ゆるやかに繋がって、一丸となって命を育み守っていけたら、
どんなに素晴らしいでしょう。

自分と違うものを認めて敬える心。そうして他人を愛するように、どんな自分自身をも愛してあげて欲しい。
そうしてまたそのように他人を。

私が宗教の垣根を越えて目指すのは、世界の平和ではなく、
皆様が自分自身を愛し自分自身に感謝できる究極の信仰でございます。

自分自身を愛するというのは、非常に難しいのです。
自分の一部を否定してしまったり、自分の正直な気持ちを押し込めたり、自分が見えなくなったり。
どんな自分をも直視するのは、とてもつらいことです。

ですから、人と出会うのです。
時に他人は鏡となって、自分の姿を見せてくれます。
他人をゆるすことは、自分をゆるすことなのです。
こうして人は気づかぬ中にも助け合い支え合って、人生を作り上げていきます。

まずは、自分自身を愛し感謝すること。甘やかすのではなく、愛すること。
その愛は、初まりにして究極の信仰であるのだと、私は思います。

 

(続く)

 

 


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