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心の泉(宮司のはなし)

八幡宮の境内

只今、八幡宮の境内は、草達が生い茂っております。

 

長年、私宮司の葛藤の末、今年から境内を使用するお祭り前以外での草刈りは一切廃止いたしました。

どのような葛藤であったかを記すことに、反発もご批判もあるかもわかりませんが、是非今「当たり前」だという観念になってしまっていることが見直されるきっかけになれば有り難く思い、記すことにいたします。

私は幼少期から万物の声をよく聞きました。

動物達、植物達、石達、水、星々、たくさんの次元での目に見えない存在。最近は風や物の声も少しですが聞きます。

そんな中、世間で「雑草」と呼ばれる草達を刈り取るのは、毎回胸が引き裂かれる思いでした。

 

もちろん、景観はとても大切で、清々しい境内は神様もお喜びになることでしょう。

そのようなお気持ちで草刈りをお手伝いしてくださる方々には、いつも本当に感謝しております。

 

その一方で、別の思いもありました。

単なる景観という見た目のために、他の命を犠牲にする・・・痛みを与える・・・そもそも草達は「けがれ」だろうか・・・?

現代の人間の価値観は間違っていないだろうかと何度も自分に問いかけては、「やはり間違っている」そう感じずにいられませんでした。

 

 

このような話をすると、まずご理解いただけないのが今の現状ですが、地球は人間だけのものではないことを知っていただくために、正直に言葉にしますが・・・

先の大阪北部の地震の前日、知らせてくれたのは町中の植物達でした。

直前には風も「くるよ!」と知らせてくれました。

 

地震後、境内の草達が話しかけてくれました。

「いつも私達を生かしてくれてありがとう。お蔭で、ここを守れたよー^^」

と心から嬉しそうに。

 

本当にお蔭様で、当宮の被害はほとんどありませんでした。

 

草達のたくさんの強い根が、地盤を強くしてくれて守ってくれたのだと思っています。

田んぼのあぜ道も、草達がいなくては、歩くこともままならないように、草達には草達の役割りがあり、万物はみな支え合ってバランスを保っています。

 

刈られても刈られても、恨むことなく怒ることなく健気に奉仕の心一筋に生きる草達を、神に仕える者として尊重しようと決心しました。

もちろん、神に仕える者として・・・と申しましても、様々な価値観やお考えがあります。

正解不正解などなく、一つの価値観や考えであることをご理解くださいませ。

 

そして、動物達におきましても、生きるチャンスを奪わないことを同じく決心いたしました。

 

今、多くの野良猫達が、当宮にご飯を食べに来ます。

色々なお考えのお方がいらっしゃるとは存じます。

 

しかし、この万物が寄り添い生きる地球を我が物顔で所有し、他の生き物の住処も食べ物も独り占めして奪い続けているのは、私達人間です。

 

自分たちの暮らしのためには、食べ物も分け与えもせず排除するのが常識になってしまっています。人間だけの常識を万物に無理強いしていることに、「常識」の名のもと疑問にも思わないのはとても悲しいことです。

 

時々、「猫が嫌いなお方もいらっしゃるので去勢させてください」とおっしゃるお方もいらっしゃいますが、野良猫達の意見を聞くと、進んでそうしたい猫は一匹もいません。

(飼い猫は別の意思を持っている猫もいます)

 

アレルギーをお持ちのお方のおつらさは大変わかりますが、

好き嫌いと命の尊厳とを天秤にかけてみると、考えるまでもなく答えは出ます。

 

しかし、保健所に連れて行かれて殺処分されることもまだまだある悲しい世の中で、去勢・避妊という苦渋の決断をして生きる機会を奪わないでくださることや、その動物達への深い愛情には同じ人間として大変感謝しています。

現代社会の人間都合になってしまった現状では、到底共存していけませんからね。

去勢・避妊手術の強要も、生まれた命を守る現代における最善の処置であることは紛れもない事実です。

 

今は、確かにそうですが、未来への舵はどちらに切れば良いでしょうね。

 

まず、どうして、万物の内で人間は知恵を授かっているのでしょう?

「人間様」になるためでしょうか?

万物との共存のためにどうしていくべきを考えるための知恵だと私は思います。

皆、好む環境も違いますし、昼行性夜行性にも分かれています。

住み分けをきちんとできるなら、皆、それぞれが気持ちよく暮らせます。

きっと、人間への期待というご意志があってそのように神様は作られたのだと私は感じています。

 

そして何より、私のこの能力は全く不思議なことではありません。

水の結晶の研究では、言霊によって水が結晶の形を変えることがわかっていますし、植物も愛情をもって話しかけるほどに花や果実を実らせ、動物達もこちらのいうことを理解しますよね?

万物は、人間のメッセージを受け取っています。言いなりになるという意味ではありません。あくまで対当です。

人間だけが受け取る感覚を鈍らせただけで、人間以外にはコミュニティーも意思も心もないと思い込んでいるだけです。

木々は地球中で情報を共有しています。

動物達には動物達のコミュニティーがあり、自然との共存の社会という人間よりも進んだ理解での文明を持っています。

草達は、作物が実るために根で土を耕し、微生物や小さな生き物を育み、時に身代わりとなって守る役割りがあります。(作物の栄養を吸い取ると言うのは誤解です。詳しくはノンフィクション映画「奇跡の林檎」を是非ご覧ください)

微生物は、自然界のゴミ処理&リサイクル屋さんです。

人間がそのバランスを崩して自ら害とさせてしまっているだけで、万物に不要な存在など何一つ存在しません。

 

今起こっている災害の多くは、人災です。

地球のサイクルで起こるものが、災害になるかならないかは私達にかかっています。

山も海辺も、本来は他の生き物の住処や、万物の共有財産です。

人間の都合で所有して、災害から守ってくれる存在や危機を知らせてくれる存在を排除してしまえば、感覚の鈍った人間が危機を察知出来ないことは当然とも言えることです。

全ては、人間の利己的な「常識」が引き起こしていると言っても過言ではありません。

 

 

今一度、私達人間は今までの考えや価値観を見直して改めないと、排除されるのは様々な生き物を無惨にも排除してきた私達です。

神々の期待に添えるように、私達自身で未来を作っていかなければなりません。

 

 

このようなわけで、神道から発信していこう!!と、当宮の境内でも、普段は万物達との共有の場であれるように努める所存です。

 

 

どうか、人間都合でなく、神宿る全ての存在への敬意を持って、それぞれがお考え直しいただければ幸いに存じます。

 

 

万物がみな気持ちよく存在を許される世へ。

そして、人間が自然と仲良くなって、災害による悲しい出来事から少しでも回避できる世へ。

 

 

当たり前だった価値観を、共に見つめ直していけたらと願っています。^^

 

八幡宮

 

 


「当たり前」ではなく、「お蔭様」の心を大切に。

当宮は住宅密集地ですが、楠の剪定をなるべくしたくない思いから、近隣への影響が限度と感じる三年に一度の割合で造園会社にお願いしております。

 

この正月三が日で、お一人のお方から「末社・大地主黒竜大神社の奥の一願成就の御神木に触りたいが、その御神木の枝が邪魔で入れなくなったから切って欲しい」というご要望を総代がお聞きしました。

 

当宮の楠は全部で三本いらっしゃいますが、皆さんおとなしく優しい性格で、祟るということは未だ聞いたことがありません。

その代わりなのでしょうか。特に御神木は、入って欲しくない場所には御自身の根を地表に高く盛り上げたりなさったことがございます。

この度も、何度か剪定の時にお断りして切らせていただきましたが、より下部から下部からと枝を出し、今では地表の境目から勢い良く伸びており、明らかに”御意思”を感じます。

 

申すまでもなく、この地球は人間の所有物ではありません。

「何某の土地」というのも、人間だけの世界で勝手に決めたことを、万物に対して声を聞こうともせずに無理に強いているにすぎません。

御神木の件にしましても、少し回っていただければ無理なく触れますし、木の根の保護へのお気遣いがあれば、きっと御神木のご意思にも思いが及んだはずです。

人間にとって「便利が悪い」というだけで簡単に「枝を切る」という発想になる現代の心の麻痺が、非常に残念に感じる出来事でした。

 

私は、草引き(草取り)も好きではありません。・・・決して面倒なわけではありません。

みな同じ命で、酸素を作ってくれる分、人間よりもはるかに万物のお役に立ってくれている草を、何故景観のために殺めてしまわなければならないのか、私にはわからないのです。

理想を申せば、人間の「共存」への意識が人間間だけにとどまらずに、万物の中で生かされ育まれているという命としての謙虚さを取り戻すことで、「人間本意の所有」を手放すことです。

そして、すべてに「神」を見、敬った頃の「こころ」を取り戻す方向へ世界が踏み出すことが、私の人生の大きな目標です。

 

「当たり前」を見直し、「お蔭様」をたくさん見つけましょう。

私達を守護し、育み、見守る存在に対し、身勝手ではなく感謝で応えて生きたいと願っています。

 

八幡宮

 

御神木の剪定におきましては、先住民でもある木々としっかりと対話させていただき、三年毎にお許しをいただいてからとしております。

近隣のお方にはお世話をおかけして心苦しいですが、命あるもののことですから、何卒ご理解賜り、ご容赦いただけますよう、切にお願い申し上げます。

 

 


形あるものを超えて

先日、少し遠方から御年80歳代後半のご婦人が見えました。
御子息にも先立たれ、御自身がご親族で最後のお役目のために、お元気なうちにきちんとなさりたいということで、神道でお祀りしている離婚した元嫁ぎ先のご先祖の御霊と御霊舎をお持ちになり、ご希望通りに御神前で最後のお祭を執り行いました。

前以てご相談にお越しくださった際、私は留守で主人が御霊をお預かりしたのですが、その報告を受けていると、脳裏に恵比寿様のようなお姿が浮かびます。とってもお優しい福々しい笑顔で後光が差し、小脇にはお魚とお酒を抱え、釣竿も持っておられたので、てっきり恵比寿様だと思ったのです。

お祭の最中、その恵比寿様のようなお方が、「今日まで、本当にありがとう。形は無くなっても、これからも変わらずにそばにいるよ。」とおっしゃるのが私の耳元で聞こえるんですね。

こんなとき、しっかりとお伝えするのが聞いた者の誠意かと、終わってから特徴を踏まえてご婦人にお話ししておりますと、そのお方は別れたご主人のお父様で、すごく可愛がってもらい、何故神道に改宗したかというと、お父様はお魚が大好きで、なんと、、、、お魚を食べたかったから!だったのです。(元々ご先祖様をご供養なさっていらした仏教の宗派では生臭いものはお供えできないとのこと)

失礼ながら、私もこれをお聞きして、思わず笑ってしまいました。^^

釣りも大好き!お酒も大好き!本当に優しい、大好きなお父様だったと。

どおりで恵比寿様と見間違ってしまうほど似ておられたわけですね。^^

そのお姿をわざわざ私にお伝えくださったご婦人の元舅様に、楽しいユーモアを感じます。

素敵なお話を聞かせてくださり、ご縁の素晴らしさや人と人との間に通い合う愛のあたたかさに触れ、私はかけがえのない幸せを分けていただいたような思いがし、涙がこぼれました。

深々とお辞儀をしてお帰りくださいましたが、私の方こそ本当にありがとうございました。


秋祭(だんじり祭)本宮祭です

おはようございます^^

いよいよ雨風も台風らしい力強さに変わってまいりました。

草木達は大変気持ちよさそうですが、だんじり祭に台風が接近するのは初めてのこと。

ご奉仕くださる皆様、ご参拝の皆様、どうかくれぐれも安全を確保なされて、慎重に行動なさってくださいませ。

 

皆様お元気で無事に帰宮されるのをお持ちしております。

 

 

神社へ初穂料をお納めくださった方、地車保存会へ御花をお納めくださった方、誠にありがとうございます。

初穂料は当宮御本殿前に、御花は当宮東の地車保存会掲示板に、ご芳名を掲示しております。

 

本日も、素晴らしい日にいたしましょう^^

投票へお出かけの皆様も、どうかお気をつけて行ってらっしゃいませ。


憑依でお困りのお方へ

※まずはじめに、今回は、霊に取り憑かれやすくてお困りのお方へ宛てた記事となっております。

どうか、ご了承くださいませ。

 

 

近年、スピリチュアルブーム等によって、当宮でも憑き物を祓って欲しいと御祈祷に来られる方が時々見えるようになりました。

 

私も、元々は何体も同時に入られてしまうようなものすごい霊媒体質で、取っても取っても憑かれ、天を仰ぐと順番を待つかのようにおびただしい数の霊体が渦巻き、絶望を覚えたものです。

 

本当につらいですよね。藁にも縋りたくなるほどの思い、よくわかります。

同じ人気者なら、素敵な人に好かれたい。それもよくわかります。

冗談はさておき、そんな状態だった私が、今は一切憑かれることがありません。

その頃には想像もできなかった嬉しい事態です^^

 

繰り返される憑依の根本的な解消法について、私の経験に基づくものですがお伝えしたいと思います。

 

 

そもそも、霊体というのは特別な存在ではありません。

この地球は生きている人間のものだけではなく、目に見えずともたくさんの神々や天使、精霊、妖精、霊獣なども、住む世界(次元)を分けて「共存」をし、同じ空間を共有しているようなものなのです。

ドアのような明確な境はないために、磁石が引き合うように、そのときの精神のあり方(感情・思考)と等しい対象の存在と通じます。

乱暴に結びつけると、愛情や慈愛は神々や天使や精霊などの私達の守護者と通じ、利己的な感情や攻撃性や妬みなどは私達を苦しめようとする存在と通じます。

 

即ち、良くないものに憑かれるときは、大抵自分の思考や感情に問題があります。

私の場合、「同情」と、「正義」でした。

同情と正義に何故問題があるか。

人生は、自分の責任で生き抜くものであり、その因果に偶然はありません。

そこに同情するのは、誰の為にもならず、結局は相手の真の幸せより自分の偏見や感情を優先しているにすぎません。

同情するより、肯定的に捉え、希望を持って接すれば良いのです。

正義もまた同じことで、悪を生み出す思想という側面も持ち合わせていることを理解していないと、時に強い正義感は攻撃性を助長することとなってしまいます。

 

心の底から、相手の幸せを信じ、深い愛と強い意志を持っていれば、まず寄って来なくなります。

それでも来てしまうときは、友人に言うように「帰ってね」と意志を伝えましょう。

これは、経験上、ややこしい悪霊のようなものでなければ100%帰ってくれます。

 

 

そして、

霊体と言うのは、エネルギー体です。

私達もまたエネルギーを常に放っています。

自分の思考からのエネルギー、感情からのエネルギー、身体からのエネルギーこれらは常に等しく、その質と同等の他のエネルギー体と引き合っています。

病気は、魂(良心)からのサインであり、思考や感情を見直すためのメッセージでもあります。

素直に改めることで、悪いエネルギー体から疎遠になり良いエネルギー体と引き合っていくようになります。

心の習慣を変えるのは、とてつもない労力を要し長い道のりですが、努力すれば必ず前には進んでいるものです。

今は光も見えずにつらいと感じる体質でも、プラスに転じれば素晴らしい体質だと思える日が必ず来ます。

是非、天使や鳳凰や龍に好かれる自分作りをしていってください。

 

 

 

 

 

そして、どうしても困った時には、産土神様や氏神様にお願いしましょう。

(基本的には、日の出から午後3時までの参拝をお勧めします。)

「自分と向き合う覚悟」と「他者への愛」があれば、神様は必ずお聞き届けくださいますよ^^

 

今回は根本的な憑依対策にクローズアップいたしましたが、エネルギーの法則は万物に通ずるものですね^^

 

お困りの時、是非とも参考にしていただけると嬉しゅうございます^^

 

 

 

皆様の素晴らしい未来を信じています。

 

 


地球にまもられて

近年、深刻な環境汚染などの地球の悲鳴を受けて、他星への移住を視野に入れた惑星探査のニュースを頻繁に目にするようになりました。

 

それ自体を否定する気はありませんが、

その発想の前に、私達にはクリアしないといけない問題があります。

 

申すまでもなく、地球は物ではありません。生命です。

地球上のすべての生命は、地球という母なる生命にずっと等しく守られ、育まれてまいりました。

その命の母を自分たちが散々苦しめて、自分たちがしたことへの後始末をせずに使い捨てるように出て行くという発想では、別の星に移住したところで同じことを繰り返すだけになってしまいます。

地球上には植物、動物、水、鉱石、虫、菌類など、たくさんの生命が生かされています。

人間は知恵を授かり、「万物に神が宿る」として万物を敬い大切に扱ってまいりました。

科学で証明がなされるなされないに拘らず、人智を越えた存在として、あらゆるものに神の姿を見出し丁重にお祀りしてきました。

(この今でも受け継がれる神道の精神にもある考え方は、一宗教にとどまらず人類の道徳として広まって欲しいものでもあります。)

 

私達は生きる為にやむを得ず多くの命をいただいていますが、その命が口に入るまでにどのようなストーリーを歩んできたのか想像したことはあるでしょうか?

繰り返しますが、地球上のすべての生命は、私達人間と等しい何ら変わりない生命です。地球にとって我が子同然です。

人間がそのことを受け止め行動に反映されるだけで、守られるものや保たれるバランスがあります。

 

地球を苦しめるのは、環境汚染に限りません。

物として乱暴に扱われる命の悲鳴、人間同士がいがみ合う悪想念、そういった目には見えずとも私達でさえ感じる不快なエネルギーは、地球が吸収し私達を癒し守ろうと力を使っています。

時に反発や浄化、バランスの維持のために自然災害を起こしながら、すべての命を守るために頑張ってくれています。

それでも、災害の前には、自然と共に人間へも前触れとしてのサインを必ず出してくれています。

 

この地球でこれからも住まわせてもらうために、まず私達人間がするべきことは、

より高い堤防を作る為に砂浜を失くすことではありません。

失なったものばかり見て、不満を言うことではありません。

動物達の生活を一方的に奪って、尚且つ害獣として扱うことではありません。

 

地球の示した意志を真摯に受け止め、地球へ住まわせていただいていることへの姿勢を改めることが、まず初めにするべきことだと思います。

 

近年、すごく災害が増えています。

私個人としても、毎日感謝と祈りを捧げておりますが、地球が非常に疲れてきているように感じています。

 

祈りの力は絶大です。

お心のあるお方は、是非、母なる地球やご自身を含めた万物に感謝と祈りとを捧げてください。

今、大変弱っている地球の再生の力に必ずなります。

 

 

私達人間同士で問いかけ合い、気付いた人から一人一人が発信していかなければならない時代に入っているのではないか?

かつて八紘一宇の精神で国づくりをなされた神武天皇様のように、宗教や信条の垣根を越えて、認め合い讃え合うことが、次世代の世界的な課題になっていくのではないか?

いつか、神道に息づく和平への思想が人類の道徳となることを期待し、個人的に強く感じるところあっての発信でございました。

(※決して、宗教の否定や神道の押し付けではありません。)

 

お受け取りくださった皆様方、心から感謝申し上げます。

 

掲載画像 © GoiPhoneWallpapers.

共に感謝を捧げましょう


新年を壽ぎ 謹んでご祝詞を申し上げます

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新しいこの年も

神々の御恵みをいただいて

美しく輝いていますように

皆様のお健やかな日々と

御多幸をお祈り申し上げます

平成29年 元日


『信仰』とは『宗教』の外にあるもの(2)

最近の風潮で、非常に気になるものがあります。

それぞれの正義がぶつかり合い、相容れぬ相手への批判が過剰になっていく傾向にあることです。

なぜ気になるかと申しますと、私が記憶してきたり史実から感じ取ったりしてきた「日本人」のあり方と随分かけ離れてきたように思い、現代の社会に狭量さすら感じるからです。

 

神道の素晴らしいところは、すべてを「お客様」として迎え受け入れる精神にあると言われます。

日本は、歴史的に見ても、仏教やキリスト教をはじめその他新興宗教に至るまで、共存できる類い稀なる国家です。

それは他でもない、神道にも表れる「日本人の寛容の精神」があったからこそ叶うものなのかも知れません。

 

そして私個人として感じるのは、神道の根本にある万物を神と拝む姿にある

自他の区別のない「和合の精神」です。

 

そして、日本のこの素晴らしい精神は、連綿と続いてきた国の形にありました。

これには神話をお読みいただく必要がございますが、

天皇陛下の御存在です。

民を元首の意向だけで支配するのではなく、民と歩み寄り共にあり「治める」お姿。

そのような唯一無二と言っても過言ではないお蔭と、素晴らしい国の形が、

私達日本人の遺伝子の記憶には受け継がれているのです。

 

日本人には、他の国にはない、寛容の歴史があります。

自分と違うものを認め、尊重できる力です。

その力は、どのようなことをも「感謝に変えられる力」です。

 

物事には、必ず多面性があります。人もそうです。

正義もまた、立場によっては悪にもなり得ます。

正義も善も悪もそれらは本来魂の指針によるもので、自らの内にあるものが映し鏡となって自らに起こります。

万物はすべて表裏一体で、

立場や見方が違うだけで善が悪となることもあれば、悪が善となることもあり、

同じ物事でも、光の部分が目立つときもあれば、影の部分が目立つときもあるのです。

 

それらは、宇宙の初め、天之御中主大神がお現れになり神産須日大神と高御産須日大神が続いてお現れになった時、外へ向かう力と内へ向かう力とによって世界は生まれたと読み取ることができます。

自他に分けると、相反する勢力は悪になってしまいますが、全体を見るときすべてはバランスとなってそれぞれの役割を担っています。

その真理に触れれば、きっと穏やかに自らの役割や進むべき道が明らかになるのではないでしょうか。

たった一つの面だけを見て批判し、排除してしまっては、ただ見えなかっただけの多くの面の可能性をも失ってしまうばかりか、その存在価値さえも奪ってしまいかねません。

 

日本は、もっともっと精神の豊かな国です。

次世代の素晴らしい可能性を持つお子達が、皆様に寛容に見守られながら健やかにお育ちになり、

それぞれがそれぞれを思いやり、愛情を育み合い、新時代の到来にこの国の豊かな精神を取り戻していかれることを心から期待し、

私も微力ながら道しるべとなれるよう努力し、皆様と共に見守っていきたいと思います。

 

今日は、和合の精神からの信仰のお話をさせていただきました。

最後までお読みくださり、誠にありがたく存じます^^

 

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肉体を持ち生かされる喜び(子育ての日々から)

今日は、肉体を持ち生かされる喜びの共有になればと思い、母目線の喜びを通してお話ししたく存じます^^

一人の新米母と談笑するようなお気持ちで、肩の力を抜いてお読みくだされば幸いでございます^^

私達夫婦の間に、娘を授かって早二年を迎えようとしています。
娘を運んで来てくださった神様や先祖、娘本人、夫や夫の家族、それから縁ある万物のお蔭で、こんな未熟な私も母にしていただけて、日々娘を通じ人間の素晴らしさに驚くばかりです。
最近娘にも芽生えはじめた自我。
精神世界では、よく自我を捨てて真我をと言われます。
しかしながら、この自我こそ、娘が生まれた所以であり、人生のあらゆる岐路で、真我によって見極め自我によって選び取るのだと、私は昨日、閃くように知ったのです。
反抗期やイヤイヤ期とも言われる、多くの親御さんが手を焼くこの時期。
娘はまだまだ軽度でありますが、私も例外ではありません。
でも、その大変さを凌駕して大きな大きな喜びがあります。
娘の自我が愛おしくてしょうがなくて、何があろうとも最後の最後まで可能性を信じ、育て、見守りたいと願います。
この母の思い、湧き出でる慈愛は、きっと万物の御祖である神々も同じこと。

私達は、無償の愛を輝かせるとき、神々の御分霊が自らの内にもあることを確かに感じることがあります。

自我は、肉体と共に与えられた、「生」の内にあるものです。
捨てるのではなく、コントロールしバランスを取ることが大切ですね。
それが、自分自身が生かされ生きる所以であると思います。
神様からの贈り物に、不要なものなど1つとしてないのですからね^^
たまに現実世界を離れて、精神世界こそ宇宙意識だ高次元だという思想に出会うことがありますが、
そのような言葉を借りるならば、この現実世界も、紛れも無い宇宙意識の一つです。
肉体を蔑ろにすることが、宇宙意識ではないはずです。
何事も、バランス。そのコントロールが肝心ですね^^
肉体を授かり生かされる間は、今こそ出来ることをしよう。
精神を磨くことにおいて、体験に勝るものなし。
生かされ生きる喜びは「今あるもの」を大切にするところにある。
生きるって、肉体って、本当に素晴らしい!!

そんなことを子育てから教えてもらいました。

感情を持つ人間にとって、子育てがいかに人の精神を豊かに育て、得るものが大きいかを、日々感じております。

最後までお付き合いくださり、誠にありがとう存じます^^


祈りを忘れず。

 

皆様、こんにちは。

なんと週末は30~40年に一度とも言われる大寒波が西日本に押し寄せるようで、数日前からすでにその余波がやって来ていますね。職場でも自宅でも暖房器具が頑張ってくれています。

どうか、決して御無理な行動はなさらず、温かくしてお過ごしくださいませ。

 

 

 

さて、今日は、祈りと願いとの話です。

 

皆様は、神社や寺院でお祈りを捧げられたり、願掛けをなさったり、あるいはどなたかを思って祈られたり、きっといくつものご経験がおありかと存じます。

 

その「祈り」と「願い」とは、実は別物であるということをご存じでしょうか?
または、それぞれの意味について、考えてみられたことはおありでしょうか?

私は、職業柄よく考えます。というよりは、感じ取っていると申し上げる方が正確かもしれません^^

 

祈りとは、私達が大いなる存在と周波数を合わせる努力をすることで、大いなる存在から私達に合わせてくださり、意識が繋がり対話し、本来の人の姿である尊い利他の心で、その高次元に相応しい事象を引き寄せるもの。

例えば、感謝を捧げたり、世界中の平和や世界中の人の幸せを祈ったり、事故や事件で被害に遭われた方々の心身が癒えるように、又亡くなられた方々のご冥福を祈ったり、地球が癒えるように祈ったり、このように無償の心・利他の心で、大いなる存在とつながり叶えようとする行為が祈りです。

 

願掛けとは、こちらの希望を汲んでいただくことで、願いに到達するための試練を乗り越え、対価としてお返しをする心構えを持ち、願いを聞き届けられるのを待つもの。

例えば、一年家族共々健康で過ごせますようにと願ったり、自分や家族、または友人の病気が癒えますようにと願ったり、希望の学校へ入れますようにと願ったり、広義での自分の欲求のためにお願いする行為が願掛けです。

そこには「対価」というものが発生し、何かを得る願いに対してはお金であったり品物であったり、健康への願いに対しては仕事であったり奉仕であったり、縁結びに対しては御縁の整理であったり誠意であったり等、

「自分自身の人生においての、A(対価としての試練)を学ぶためにA’(願い)をください。」というのが基本の在り方です。

何かを願うとき、その願いを叶えていただいたら私はこうしてお返しをする!というお気持ちがあり、尚且つその御守護に向き合うお心があれば、そのための試練と成就は用意させるということになります。

例えば、大学入試。最善の努力(守護と向き合う行為)はあった上で、何故その大学に入りたいのか、その大学で何を学び(対価としての試練の基礎)、その学びをもってどう社会や人に貢献したいのか(対価としての試練の応用)等、明確にしてからある種の覚悟を持って臨むということです。

言葉にしますと、とても厳しいもののように感じられますが、ただ目の前のことを大切に、一所懸命に取り組むこと。試練を前向きに捉えて努力すること。そうしているうちに、目的は一つ一つ成し遂げられていきます。

それに、ただ漠然とお願いするよりは、きちんと目的を持ってお願いすることで、人生に緩急と透明感が出てくると思われませんか?^^

 

真心は、必ず神に届く。

今迄たくさんの御祈願をご奉仕させていただいて、自信を持ってそう言えます。

 

ただ、願っただけで努力を放棄したり、又は神様からの贈り物が、自分の望んだものとは違ったりした時に、人は用意された機会を見送ってしまいがちです。

神様は、人を甘やかすために願いを叶えるわけではありません。

大きな親心で試練を用意し成長を見守ったり、手助けとしてたくさんの機会を与えてくださいます。

 

ですから、どのような些細に思えるものでも「宝」と感謝し大切にできる心こそが祈願を成就させるコツであり、今を大切にすることがよりよい未来を作ります。

「足るを知る」
それは、我慢をしろということではなく、よりよい自分自身を引き寄せ創造るものだと私は思います。

 

人は、最期の時、必ず「愛」と「奉仕」について反省するそうです。
そうならば、それが人の本来の姿であり、産まれてきた目的です。
「自分に何ができるか。」まずは、それがあってこそなのですよね^^

 

私個人的には、願いより祈り。

神様の御心はどこにあるのか、そこへ自分自身を寄せていくことの方がよっぽど幸せな生き方であると思っています。

何かを願う時、その願いは神様に祝福されるものであろうかと、そっと祈ってみてください。

繰り返すたび、きっと人生や「願い」の価値が変わることだと思います。

 

願うことは、決して悪いことではありません。

しかし、どのような時も、祈りを忘れずに。

 

豊かな人生のために、私はお勧めいたします^^

 

 

八幡宮


七五三まいりの由来

今日は、七五三詣りの由来についてお話しいたします。

近年、一括りに「七五三」と言われ、満年齢でお詣りになられることも多くなりましたね。

男児は数え年の三歳と五歳、女児は数え年の三歳と七歳の11月15日に、お住まいの産土神様・氏神様へお詣りなさるのが習わしです。

(当宮では現在、ご都合に合わせて10月下旬から12月初旬まで承っております。それ以降にお詣りをご希望の場合も遠慮なくご相談くださいませ。)

 

三歳のお祝いは、「髪置きの祝い」と言われ、赤子の髪型から子供の髪型へ変わる行事。

五歳のお祝いは、「袴着の祝い」と言われ、男児が初めて袴をつける行事。

七歳のお祝いは、「帯解きの祝い」と言われ、女児が子供用の柔らかい帯を解き、大人と同じ固い帯に締め直す行事。

このように、それぞれの意味がございます。

 

つい百年程前までは、子が無事に成長できずに尊い命を亡くすことも、決して少なくありませんでした。

祖先や先人達は、こうして頻繁に、子が無事であることを感謝し、この先もどうか元気に育ちますようにと祈り願ってこられました。

祖先や先人達のこのような親心があり、祈りがあり、たくさんの御守護があり、その歴史の上に今日の私達が存在します。

大切に受け継がれてきた日本の祈りは、私達もまた子へと伝えていかなければならない、生命の財産でございます。

 

私もまた我が子を思うように、皆様の大切なお子様方のこれからを思い、お一人ずつ御祈願させていただいております。

 

八幡宮

 

御境内の楠が、年を重ねるごと緑が加わるように、

お子様方が、たくさんの感謝と祈りの中で、大切に大切に人生を歩んでいかれますように。

 

 

 

 

 


2015-10-06 | 【人】

継子投げの岬

すっかり秋めいて、風が清らかに感じられる季節となりましたね。

なかなか更新できず、申し訳ありません。

 

今日は、母親の歴史をお話ししたいと思います。

 

皆様は、継子投げの岬という場所をご存じでしょうか?

 

クジラで有名な和歌山県の太地町。

そこに、その岬はあります。

 

恩師も、私の先祖も、和歌山県の出身で、この「継子投げの岬」にまつわるお話はよく聞きます。

これは、まだまだ女性の地位も低く、子を産むだけの存在であった頃のお話です。

 

和歌山には、「子を貰うと子宝に恵まれる」そんな言い伝えが古くにあったそうです。

子を生まない女性は「産まず女(うまずめ)」と呼ばれ、離縁されることもしばしば・・・。

結婚は家や子孫の繁栄のためのものでありましたから、女性は子という存在によって家に置いてもらえ、子に恵まれることに必死でした。

それが、「生きる」ことでしたから。

ところが、子に恵まれない女性はやはりいます。

戦争等もあり、栄養面にも苦労する時代ですから当然です。

そういったお家は継子をもらいます。

そして、その子を我が子同然に愛し、育てているうちに、言い伝え通りに実子に恵まれます。

 

母としては、どちらも我が子。優劣等つける事ができません。

しかし、嫁にはそれを言う事も主張する事もできない時代でした。

 

多くのお家が、貧しいながらも家を守っていましたから、跡継ぎはとても大切でした。

ある日、舅・姑から、「継子を捨ててくるように」と言われます。

当時、命令と同じですから、逆らえば自分が出て行かなければなりません。

現代と違い、嫁に行けば実家には二度と帰れない時代。女性が仕事を貰えない時代。

それは、死を意味していました。

ほとんどの女性が、人目につかない嵐の夜を選ぶと言います。

どうか来ないで欲しいと願った嵐の日。。。

母は継子を連れて出かけます。手をつないで、嵐の中を行きつ戻りつ。。。

「この子をこの山に生かしたところで、育てる人もない。飢えて死ぬ事ほど苦しい死に方もない。

私が拒絶してこの子を守ったところで、引き裂かれ二人とも捨てられてしまう。

私も一緒に死んでしまおうか・・・しかし、もう一人の子を残して逝けない・・・。」

 

意を決して岸壁にたどり着くと、思い切って投げ落とします。

その後はどうやって家にたどり着いたのか。。。

 

その後、どんなに年月が経っても、嵐が来るたびに、雨風の音が、その子の泣き声に聞こえたそうです。

犠牲になったのは、その子だけではありません。

その母も、養子にくれた生みの母も、時代の犠牲でした。

もちろん、太地町だけのお話でもないはずです。

同じ女性として、聞くに堪えない史実で、初めて聞いたとき嗚咽がこみ上げました。

今でも、その女性達や奪われた命を思うたびに、痛いほど胸がしめつけられ、涙がこぼれます。

そういったたくさんの女性達の苦しみの上に、今日の女性の地位があることを、女性は忘れてはなりません。

 

罪悪感にさいなまれるわけでもなく、抱きしめるたびに奪った愛おしい命を思い出すわけでもなく、

「我が子を、ただ愛おしくて抱きしめること。」

そんな普通のはずことが、出来ない時代がありました。

 

私たちは今、大きな心配もなく、目の前の命を抱きしめることができます。

その幸せは、当然ではないのです。

 

様々な因縁によって、虐待を経験されたお方も、心とは裏腹に虐待をしてしまうお方もいらっしゃることでしょう。

この歴史は、どなたの遺伝子の中にも残っているはずだからです。

 

大丈夫です。もうそんな時代は来ません。

 

ですから、つらい時ほど、目の前の愛しい存在を思いっきり抱きしめてあげてください。

愛しい存在のためにも。
そして、ご自身のためにも。

 

今、女性は、他に何もいらないほどの大きな幸せをすでに得ていることを、
社会でつらいとき、子育てに疲れたとき、思い出していただけたら幸いです。

 

思い切り抱きしめることのできる幸せ。

私も、日々噛み締めようと思います^^

 

八幡宮

 

 


2015-09-23 | 【人】

身体と心

本日は、病気平癒のご祈願が数件ございました。

もちろん本日だけではなく、常々、ご病気のお方とお話ししておりますと、ものすごく人に気をお使いになる、とても繊細なお方が多いように感じます。

いつも自分のせいにしてしまっていたり、自分を責める癖がついていたり、思い当たられることはございませんか^^?

 

実は、自分を責める行為も、他人を責める行為も、「気」は同じなのです。

普段、人を許しておられるように、ご自身を広い心で認め、豊かな愛情で包んで許してあげてください。

また、普段他の人を責めてしまいがちなお方は、他の人に対してそうしてあげてください。

難しければ、「まあ、いいか。」そんな風に、楽観的になられるのも良いでしょう。

 

心から発せられる気は、身体に影響します。

心が健康でのびのびしていれば、身体も元気になります。

 

そして、「いつもありがとう。」

生まれてから死ぬまで、休み無く働く身体に感謝し、労ってあげてくださいね^^

 

皆、命の重さは同じです。

どうか、ご自身を大切に。

 

八幡宮

 

 

 

 


2015-07-18 | 【社会】

平和とは何でしょうか?

連日、メディアを騒がせている国家安全保障関連法案(以下、安保関連法案と記述します)の採決。

賛成されるお方と反対されるお方と、両者の言い分があって然りではございますが・・・。

 

私が問題だと思うのは、やはり報道の在り方だと思うのです。

国会議員は、選挙という国民の意思によって選ばれています。

公約に掲げていた内の1つである安保関連法案の件に関しても、

当然ながら今更どうこういう問題ではございません。

野党の一部では、「戦争」法案だと乱暴にそこへ結びつけるような名前で呼んでいますが、

あくまで自民党は、戦争にならないための「抑止力」としての法案であると説明しています。

しかし、事実を伝えることが本分であろう報道が、事実を隠しねじ曲げて視聴者の思考を反対へ誘導するように捏造しているのです。

 

きっと、多くの人々が、出来うる限り戦争などしたくありません。

私もそうです。

日本は、平和を願う国同士では、良い国であるでしょう。

しかし、守る術のない私達は、一部の国にとっては恰好の獲物である事実を忘れてはなりません。

私たちがいくら一方的に「戦争をしません」と言ったところで、戦争は無くなりません。

そればかりか、抵抗もせず殺されたり、虐げられたり、あらゆるものを奪われるということなのです。

 

是非、想像してみてください。

最愛の人が、恩人が、守るべき弱い存在が、目の前で殺され、陵辱される姿を。

大切なものが無惨に壊され奪われていく姿を。

それは、本当に「平和」ですか?

そうだとしたら、「平和」とは何でしょうか?

 

貴方は、黙って見ていられますか?守ろうとはしませんか?守るために戦おうとしませんか?

それは愚かなことなのでしょうか。

 

 

その脅威がすぐそばに迫っている今、何もせずに待つと言うことは、戦争を誘発することと同じだと申しても過言ではありません。

現に、法案が可決されたことで、「危険」と見做した国がありました。

その反応は、「敵である」という意識があり、更には「攻める気である」ということの証明なのです。

 

例えば、私たちが近頃物騒になってきたからと、自宅の警備を強化したとします。

当然の対策です。簡単に侵入出来ないことがわかれば、犯罪の抑止力にもなりますね。

もし侵入されても、未然に防ぐことができ、大切な人やものを守れる確率もうんと高くなるでしょう。

そこで「それは危険な思想だ!野蛮だ!」と言うのは、強盗や空き巣など、犯罪を犯そうとしている者だけです。その思考こそ、危険の現れであるのです。

私たちが置かれている状況は、これに似ているのです。

もちろんこれほど単純で小規模ではありませんが、人間の心理というものはさほど変わりません。

 

報道の「戦争」という言葉で思考停止にせずに、冷静に見てみてください。

誰も戦争など望んでいないことがわかると思います。何とか私たちを守ろうとしているということが理解できると思います。

反対派の有名人が、「賛成した人が真っ先に戦争へ行け」とおっしゃいました。

こうして、「正義」と称して、意にそぐわない人を簡単に危険に曝そうとする精神こそが「戦争の正体の一部」であることを知って欲しいのです。

そして、戦争へ「行く」という観点での「集団的自衛権」への反対意見であると思いますが、日本が戦場となる可能性が高いからこそ必要な処置であり、

皆で力を合わせて、武力で意のままに外交を進めようとしている国から守り合いましょうという、戦争にさせないための法案なのです。

 

 

この時代には、まだ平和は来ません。

もっと理解が進まないと、与え合うより取り合います。

善悪を作ることは、敵味方を作ることです。

その意識では、まだまだ戦う必要に駆られるからです。

自分が持っている一つのパンを、少しづつ皆に分けられること。

自分と違うことを尊重できること。

それを皆が出来るようになって、初めて平和が存在します。

一人でも独り占めする人がいれば、多くの人が死んでしまいます。

意見や価値観を押し付ければ、歪みや反発が生じます。

平和とは、本当に難しいことです。

戦争しないと表明することと平和とが結びつくわけでは決してないことを理解する必要もあると思います。

 

そして、何より忘れてならないことは、この地球は私たち人類のものではないということです。

人類が多く死ぬことは私たちにとっては大きな哀しみですが、地球や他の生物のことを考えると自然の法であるとも言えます。

戦争がなくなれば自然災害や事故などでバランスが取られることを、お気づきになっているお方も少なくないと思います。

それに、自分や大切な人やものを守るための戦いを、神々はお咎めになるでしょうか?

野党の中には、「殺すくらいなら、殺されよう」というビラをばらまいている政党がありました。

親は、いざという時に、子供を守ることすら蔑まれるべきでしょうか?

私はそうではないと思います。

 

国を守ることは、国民を守ることです。

力で解決することしか出来ずに戦争を仕掛けるのは、本当に愚かなことだと思います。

日本は決してそちらへ向いているのではありません。

その愚かさから守ろうとしているだけなのです。

戦争で解決する精神にはなるべきでありません。しかし、戦争自体を悪とも言い切れません。

それも含めて、必要な一歩であったと思います。

 

今の報道の在り方には大きな問題があります。

しかし、視聴者が賢くなれば、必要な情報を選べるようになります。

大切なのは、いつも「脳の習慣のようになった昨日までの思い込み」を捨て、自分で考えること。

批評ではなく、未来を見据えて優先順位を決め、建設的に創造することです。

 

常に、私たちは通過点です。

よりよい未来を次世代へ手渡せるように、しっかりと歩んでまいりましょう。

 

八幡宮

 

 


2015-06-10 | 【人】

『信仰』とは「宗教」の外にあるもの(1)

八幡宮

私は、宗教と信仰とは別次元にあると解釈しております。

信仰心とは、感謝の心であると思うのです。
よく、「私は何も信仰していません」とおっしゃるお方に出会いますが、私の観念では「私は何の宗教組織にも属していません」が正確な表現ではないかと思っております。

親を敬ったり、子を愛したり、健康がありがたかったり、困っている人を助けたり、人や物を大切にすることの根底にある感謝の心それこそが、私は信仰心であると思います。

どんなに熱心にお参りしても、自分に不都合なことが起きた時に誰かや何かを責めては、何の意味もありません。
そんな時に自分を省みたり、御蔭様でこれだけで済んだと感謝したり、
同じことが起こっても、それをどう感じ取るのか。信仰の価値はそこにあると思うのです。

神道は、本来は宗教ではなく、自然発生した信仰や社会の在り方が形になったものです。
ですから、お祭りも土地によって様々ですし、教義や教典などもございません。
神社は、神様がお鎮まりになって、皆様のそれぞれの信仰を受け止めるところなのです。

私は、たくさんの宗教の方々にもお参りに来ていただきたいと願っております。

宗教の垣根を越えて、それぞれの宗教の良いところや知恵が、ゆるやかに繋がって、一丸となって命を育み守っていけたら、
どんなに素晴らしいでしょう。

自分と違うものを認めて敬える心。そうして他人を愛するように、どんな自分自身をも愛してあげて欲しい。
そうしてまたそのように他人を。

私が宗教の垣根を越えて目指すのは、世界の平和ではなく、
皆様が自分自身を愛し自分自身に感謝できる究極の信仰でございます。

自分自身を愛するというのは、非常に難しいのです。
自分の一部を否定してしまったり、自分の正直な気持ちを押し込めたり、自分が見えなくなったり。
どんな自分をも直視するのは、とてもつらいことです。

ですから、人と出会うのです。
時に他人は鏡となって、自分の姿を見せてくれます。
他人をゆるすことは、自分をゆるすことなのです。
こうして人は気づかぬ中にも助け合い支え合って、人生を作り上げていきます。

まずは、自分自身を愛し感謝すること。甘やかすのではなく、愛すること。
その愛は、初まりにして究極の信仰であるのだと、私は思います。

 

(続く)